海原の穴
身重な、鼠色の空を見上げ、あとどのくらいの時をこうして過ごせるだろうかと甲斐姫は思いを馳せた。
城の天守をかざる瓦にかかりそうなほど、雲は厚く、今にも水が落ちてきそうだ。雨が降り出せば戦況は動くだろう。
忍城を囲む堤防を、見るでもなく見ながら、甲斐姫は主君である北条氏康がこの場にいればきっと、
この蒸し暑い中ご苦労なこって、
と自分の代わりに豊臣軍を野次ってくれたに違いないと思う。
南の空も、同じく曇っていた。
小田原では雨が降っているだろうか。
そもそものきっかけは、猪俣邦憲が真田幸村たちの城を奪取したことだった。
甲斐姫も父・氏長に同行し、小田原城まで事のあらましを訊きに訪ねたのだが、
けっきょく猪俣がそのような愚行をしでかした原因はよくわからず、
ただひとつわかることといえばこれを機に豊臣が北条を討伐するだろうということだった。
氏康は事件についての話を避けているようだった。
変わりに、それから酷く優しくなった。
憎まれ口の回数は減り、御猪口を傾ける回数は増えた。
天守でそんな氏康の姿を見るたびに、甲斐姫はまだ何も失っていないのに、心に穴が開いてしまったような。そんな気がしていた。
「今年はお花見できませんね」
「今のうちに呑んでおけよ」
「いやだ、縁起でもない」
「……まあ、でも梅の花くらいだったら愛でられるかもしんねえな」
「そしたらお父さまたちに見つからないように、御館様と風魔とわたしとでお花見しましょうよ」
「変な面子だ」
「やりましょうよ」
「うーん」
そんなことをしている場合じゃないのはわかっていたが、甲斐姫は少しだけ意地の悪い気持ちになり、断りきれない氏康の肩に頭をもたれかけた。
氏康の体は温かく、側によると心地よかった。
「寒いのか」
そういうことにしておきましょう。
頷くと氏康の腕が甲斐姫の腰にまわった。
あとどのくらいの時をこうして過ごせるだろうか。
あまり長くないような気はしていたが、だからといってこれ以上、なにができるだろう。
言葉を紡ぐか、
酌を交わすか、
肌に触れるか、
想像してみたが、いずれも心の穴を満たしてくれそうにはない。
この穴は、一体なんなのだろう。
わからなかった。わかりたくもなかった。
でも甲斐姫の気持ちとは裏腹に、籠城を続けるうち、否応なくこの穴は正体を現した。
忍城以外の居城は次々と陥落していき、取り残されてみると、自分が失ってしまったのは絶対的な自信。
真田も、徳川も、伊達までもとうとう北条を見限った。
今回ばかりは何とかなると言いきれなかった。
氏康も同じ気持ちだったのだろう。希望がなかった。目前の未来は暗い。
でも。
でも、だからこそ、そんな氏康を守りたい。
家族を、みんなを。
北条を守りたいのだ。
甲斐姫は欄干に肘をついて堤防を眺めていた。
どうしたらあれに穴をあけることができるか、考えていた。
END
(2012/06/01)
北条と真田の因縁をゲームに当てはめると切ない
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