頭を垂れて服従する、幸福だった


月夜の酒宴とは雅ですなと声をかけられ、聞きなれた声に振り向けば背の低い榊の合間からこちらを覗いているのは曹丕だった。
卓を囲んでいた張遼、徐晃を始めとする兵士たちは気づいたものからまばらに立ち上がったが、同席してもよいだろうかと問う曹丕を新たに、宴は仕切りなおして再開された。
張遼を前にしているせいか、曹丕はいささか緊張しているようであった。
それを察した徐晃が気を利かせて話を振る。
なにか、彼の得意になれそうな話題を。

「拙者は元来武骨故、月見といっても風流なものは何ひとつ頭には浮かびません」
「そうか。それは、貴方たちが自分の仕事を全うしている証拠であろう」
「曹丕殿。よければ詩など、教えてくださいませんか」
「詩ですか」

張遼はふとこんな夜が昔にもあったような気がして月を見上げた。
満ちて張りついている月。仲間たちが歓談している酒宴。
記憶を探っていたが、徐晃に先の提案の是非を問われ意識を宴に向けた。
張遼が是非にと頼めば、曹丕は酒を一口含み、意を決したように語り始めた。
目の前に詩の記された書簡が置いてあるかのように、目は一点を見つめ、言葉は淀みない。
あまり多くを語らない寡黙な青年の声は以外にも澄んでいるのだな、と張遼は思った。
山から流れる湧水の、水底を見たような気がした。

「終わりです」

弱弱しかった水脈はそうして唐突に終わった。
詩の意味などほとんど理解できなかったが、かろうじて誰かが誰かを想う詩だということはわかった。

「さすが、曹丕殿にござる」
「こんなものしか詠めぬ」
「何を申されるか。なあ張遼殿」

内容を褒めることができないのだろう。
徐晃は張遼に話を振った。

「ええ。さすがとしか言いようがありません。一言一句覚えていらっしゃるのでしょう」
「これは私の詩だ。私が作った」
「なんと。真、才能とは持つべきひとには数多く与えられるものですな」
「……貴方たちには素晴らしい武の才能がある」
「はは。私たちは、武を体現する器ですからな。徐晃殿」

徐晃に会話を返すと、徐晃は水を得たと言わんばかりに、曹丕に己の論理であるところの器の話しをし始めた。

「武とは力。それは元々神さまのものなのでござります。
拙者たちの体は入れ物にすぎず、魂は間借りさせてもらっているにすぎず、拙者たちが自ら吸収し体現していると思っている事柄のほとんどは神さまが戯れに与えてくださったものなのでござる。 それは天が実りを与えてくれるのと同じ道理です。
武は始めからそこにあります。拙者たちがそれを使いこなすにふさわしい器量を得たとき、初めてそこに目に見えぬ武を見出せるのです。
つまり拙者たちの体は、目に見えぬ武の恩恵を受けるための器。拙者たちは皆、神さまの作られた器なのでござる」
「張遼殿もそう思われるか」

曹丕は酒器を持ち上げ、張遼の盃に酒を注ぎながら訊ねた。

「はい。私もまた、そう思っております」
「ならば貴方たちは神さまのお気に入りだな」

張遼は注がれた酒を一息で飲み干した。
自分が神さまのお気に入りだとするならば、あのひとは神さまの恋人だっただろうかと。
そんなことを考えた。
人並み外れた武力を誇り、呆気にとられてしまうほど簡単に敵将を伸して帰ってくるのである。
大概いつもそうであった。

――我、彼ほどの武人を知らずや。
――天、彼ほどの武人を知らずや。

圧倒され心を占拠された経験を持つ人間が、果たしてどの位いるだろうか。
あの泣きたくなるような幸福は未だ根強く張遼自身をしばって止まない。
もうあんな体験をすることはないだろう。
そう思うと泣きたくなった。

あちらこちらで己の思考を読んでいるような笑い声が上がった。
張遼はすっと椅子から立ち上がると、今日という素晴らしい日を祝って、と断りを入れて、まだ八分目まで酒が入っている酒器に直接口をつけて煽った。
周囲から上がる大きな歓声が、張遼の心を包んでくれた。


END(2012/08/31)