! 現代で死ネタです


ハム

 張遼様。奉先様の昔の話をして下さい。
 そう貂蝉に言われ、張遼は途方に暮れた。話そうと思えばそんなものいくらでも話せるが、貂蝉がもう血でも流しだすのではないかというくらい一日中泣き腫らしているので、まるで自分が何か悪いことをしたような錯覚に陥ってしまっていた。
「今お話しすると貂蝉どのもっと泣いてしまいますから、話は今度にしましょう」
「張遼様……」
「どうか泣き止んでください」
 葬式の時は貂蝉も飄々としていたが、呂布が付き合いの長い張遼に対して気を許していたように、貂蝉もまた張遼の前では気を張る必要がないのだろう。
 そういった空気が張遼のアパートにはあった。安普請でぼろい築三十年、木造二階建ての1DK。呂布の存在が染みついているこの部屋は張遼のものというよりも、呂布のものといったほうがしっくりきた。
「タクシーを呼びましょう」
「いえ。夜風に当たって帰りますから」
「では駅まで送りましょう。もう遅いですし」
 貂蝉は張遼に弱弱しく笑い掛けると、黒い手提げを持って立ち上がった。貂蝉の姿には似合わないその袋は男性向けの洋服屋の袋で、中身は張遼の部屋に置きっぱなしになっていた呂布の私物だった。捨てていいのかどうか迷う、と葬式の際世間話ていどに話すと、貂蝉は自分がそれを引き取りたいと言い出したのだ。
 外は雨が降っていた。ふたつ置いてあったビニール傘のひとつを貂蝉に手渡して、それも呂布殿のものだから差し上げると言うと、また貂蝉は弱弱しく笑った。

 駅から家に帰る途中でコンビニに寄った。缶酎ハイと缶ビール、つまみを適当に選びレジに持っていくと見慣れた店員がいつものように働いていて少しだけ日常を取り戻せた気がした。呂布が死んだ。そのことに頭が慣れたら、今度は悲しみや憤りの感情が湧いてくるのだろう。びしょびしょの傘を再びさして家までの道をゆく。十分もかからない道のりなのに、なぜか今日はやけに遠く感じる。

 はて、自分と呂布の間に、他人を愉快にさせるような話があっただろうか。
 恐ろしく長いことつるんでいたのに特別に何かをした思い出話はこれといって思い浮かばなかった。自分たちのような関係を何と云うのだろう。同じ小学校に通っていて、家が割りと近くて、中高と疎遠になったものの自動車教習所で再会してからまたつるむようになった先輩と後輩。
 呂布はどこにいても目立っていた。体が大きいのは小学生の頃からで、常に同級生よりも頭一つ分大きくてなにかと目をつけられていた。先輩はもちろん、先生からも何をしたわけでなくとも呼び出しを受けていた。と云うのも、呂布は、体が弱かったのである。張遼は小学生のときから呂布を知っているにも関わらず、未だに呂布と病気がイコールでつながらない。一生しないと思う。あの呂布が。喧嘩ならだれにも負けなかったあの呂布が、病気には勝てなかったということを。

 どこが悪かったのですか、と式場で陳宮が貂蝉に訊ねていた。
 貂蝉は力なく笑みを浮かべて、いえそれがもう、全部、悪かったのですよ。と言う。
 そういえば、と張遼は小学生の時の記憶を思い出した。学校で受ける身体測定を風邪で休んだ時の話である。休んだ児童が保健室に集められ、身長を測ったり視力を測ったりしていたのだが、そのときに張遼は呂布と会った。清潔で静かな保健室は呂布のせいでやかましかった。赤や緑、黄色といった色のついた本を見せられ、それが何色に見えるかという検査をした。いわゆる色覚の検査だった。簡単な検査だったけれど、呂布はそれができず、できないことが理解できずにさわいでいた。
 何を見せられても黄色に見えるのだという話が白い布の間仕切り越しに張遼の耳に届いていた。
 自分が検査を受けたとき黄色に見えるページは少なかったはずだけど、呂布は何度も「それもきいろだ」「ぜんぶきいろだ」と言い張っていた。たまに迷って「ちゃいろ」ということもあり、張遼は呂布がふざけて言っているのだと思っていたが、それも呂布の病気のひとつだった。
「おまえ、あの本何色にみえた」
 視界に入る下級生に、片っ端からそう訊いてまわっていて、もちろん張遼のところにも呂布はきた。じぶんだけできないということがまだ受け入れられなかったのだろう。当時からプライドの高い、めんどくさいひとであった。
「きいろ」
 呂布の喜びそうな答えを、これ以上絡まれないように言ったのだが、張遼のもくろみは外れて呂布は兄弟を見つけたかのように喜んで張遼の肩をだいた。
「だよなー! きいろかったよな! ホラ見ろおまえら、こいつもきいろく見えたって」
 呂布は機嫌をよくして張遼をぶんぶん振り回した。このひとと付き合うとろくな目に合わないと幼いながら張遼は感じたが、そうは言いつつもガキ大将の呂布と仲良くなることはそれはそれで面白いことだった。小学生にもヒエラルキーは存在していて、特に男社会というものは強いものの下にいたほうが遥かにいい目を見れるのである。子どもながらそういう社会性を肌で感じていたあの頃。

 馴れ初め話を思い出してみたが、これが面白い話であるのかないのかはっきりしない。これなら呂布と貂蝉の馴れ初め話でも聞いていたほうがまだマシだと思いながら、帰宅した張遼はテレビを見ながら缶酎ハイをあけた。
 ようやく一息つけた。
 通夜、葬式、そういったもろもろが終わり、明日からはまた仕事、いつもの日常があと数時間で始まる。一旦この感覚をリセットしなければとても務まらないと思い酒を煽った。変な疲れ方をしているせいか、飲み慣れた酒でもよくまわった。ふらふらしながらもう少し何か食べたいと思い冷蔵庫をあける。どれも賞味期限がきれている。それでも何かないか奥を引っかきまわしているとハムがでてきた。ハムだ。想像するとハムの味が口内に広がり、まあこれも少々賞味期限がきれているが加工食品なら大丈夫だろう。
 ハムを肴に今宵はもう少し飲むことにした。
 呂布が死ぬ前はよく呂布と酒を飲んだ。といっても一緒に飲もうと約束したからではなくて、呂布が一時期勝手にこのアパートに住みついて、人の物を横取りしているような状態だったからだが。
 あんな性格だから人の下で長く働けず、親とも軋轢があり疎遠のようだった。そうやって貧乏だったもんだから病院に行くことができず体調をくずし、また働けなくなり貧乏になる。貂蝉のやっとの説得で病院に行ったときはもうほとんど手のつくしようがない状態で、一応手術という選択肢もあったが高額でとても払えない。結局我慢に我慢を重ね、苦しみぬいて逝ったという。あの人らしいと思った。弱った姿を見せたくなかったのだろう、一年前から突如音信不通になり先日とつぜん死んだと連絡がきた。
 いつもそうだ。
 前置きや遠回しの言い方を嫌い、ぶつ切りの言葉しかぶつけてこない。加えて粗暴なもんだから理解者は少なかった。本人もそれについてはもう諦めているようだった。自分の頭で見聞きした知識を誰かと共有できることはないと、他人と接するうちに自然と学んだのだろう。
 それは張遼に対しても例外ではなかった。というか、それも一緒に生活するうちに自然と学んだのだろうが。

 燻製もされてないはずのハムから煙のような味がして張遼は眉をひそめた。口にふくんだものから想像とまったく違う味がすることは不愉快だ。以前も同じようなことがあった。安物のハムは、これだから。
『張遼。このハム、煙草の味がする』
 呂布がまだ頻繁に張遼の家に寝泊まりしに来ていたとき、彼も同じことを言っていた。始め張遼は信じなかった。仕事でイヤなことがあってイラついていたし、疲れていたし、それなのに自分が買ってきたハムを勝手に食べてケチをつけられて、なんだかいい御身分だなと思ったのだ。
「そんな訳ないじゃないですか。ハムはハムですよ。なんでハム以外の味がするんですか。するわけないじゃないですか。いい加減にしてください」
 珍しくそうやって呂布を非難した。呂布は働かずに張遼の家に住みついていた手前、張遼の剣幕に『酷いなぁ』と力なく言うしかなかったのだ。
 それで、数日後、張遼もそのハムの残りに手を付けたのだが、口内にいぶしたような苦みが広がり、呂布の言葉が嘘ではなかったことに気付いたのだった。
 張遼はすぐに謝罪した。先日のハムは本当に煙草のような味がした。きっと冷蔵庫に入れずキッチンに置きっぱなしにしたときコンロの煙がついたのだろう。申し訳なかった。
 呂布からは、だから言っただろ! という非難の言葉が返ってくると思ったのに、張遼の予想よりもはるかに呂布の言動は冷めていた。
『だから言ったのに』
 張遼を介して、呂布は何を見ていたのだろう。
 呂布は諦めたはずだ。自分の体が人と違うことで一般的な感性が身につかず、それ故に他人と共有し得ない感覚を持て余していたはずだ。
 そして唯一、かつて保健室で自分をかばってくれた男とも、今はもう感覚が合わず、自分の言葉を信じてくれない。呂布の目には、世界が黄色く見える。似合うとよく言われるからか好んで赤いものを身につけていたようだったが、それもほとんど呂布の目には茶色に近い色に見えていたはずだ。世界は単調で彼の心を動かすものは少なく、自分の目にうつるものが他人と違うことに孤独と動揺を覚えていただろう。元来”バカ”がつくほどの正直者で、嘘をつくほどの頭も器量もないことを、いちばん知っているのは自分であったはずなのに。
「どうしてあの時私は呂布殿を疑ったのだろう」
 呂布が嘘をついたことなんて一度もないのにも関わらず。それが原因で、呂布が、生きることを諦めたのだとしたら?
 馬鹿な考えが脳裏に浮かび、洗い流すようにビールを煽った。
 呂布の死は遅かれ早かれ健康な同年代の人間よりも早かったはずだし、治療をこばんでいたのは呂布自身である。だけど最期まで彼と同じ世界を、見ていられればよかったのに。見ているふりを、してあげればよかったのに。そんな感傷を煙味のハムと苦いビールで飲み下した。



「張遼殿。人間ってどんな風に生きても、やっぱりちょっとは後悔しちゃうもんなんでしょうね」
「後悔ばかりですよ。もっとああしておけばよかった、こうしておけばよかったって、いつも思います」
 四十九日が経ち、貂蝉、張遼、陳宮、高順は、呂布の墓参りに来ていた。墓前に花を手向けながら、陳宮は涙を流していた。
「うわぁああああ呂布殿、こんな事になるならあなたが行きたがってたキャバクラもキャバレーもオッパブも、なんでも一緒に行ってあげればよかった!」
 呂布にはいじめられていた印象の強い陳宮だったが、なんだかんだ頼りになる兄貴のような存在だったのだろう。後悔の内容が内容なだけに、なんだか拍子抜けしてしまう。
 貂蝉は陳宮の言葉をきいてうっすらと微笑んでいた。
「奉先さま、青空が好きだったんです。よかったですね、今日はいいお天気で」
「へえ。意外ですな。そういうのやっぱり、貂蝉殿の前だけで見せてたんでしょうね」
「あら、そうですか? 晴れてると遊びに行けるからオレは好きだって言ってましたよ。皆さんと遊ぶのが、好きだったんですよ奉先さま」
「……貂蝉どのは後悔することってないんですか」
「ありますけど、奉先さまは、優しいかたですから。別に怒っていないと思います」
 火をつけた線香を持った高順が戻ってきて、一束を四人で分けて手をあわせた。他の人はなにを考えているのだろう――ハムのことであんな風に冷たくしてしまってすみませんでした。
 まさか自分がこんなことを謝っているとは、誰も思うまい。
 ハムの話を、皆にしよう。それから保健室の話も。
 きっと呂布殿らしいとみんな笑うだろう。みんなが笑った分だけ呂布も笑うような、そんな気がするのであった。

END(2013/09/09)