他者が気分を害していると愉快だ。
特にこの子犬のばあいなどたまらぬな、と目の前の甲斐姫を見て、小太郎は腹の底で茶が徐々に湧いてゆくのを感じる。
怪我の手当てをさせてほしいという申し出を、小太郎がにべもなく突っぱねたため、甲斐姫は憤慨しているのだった。
そして次の台詞も、もうわかっている。
「もう。あんたなんか知らない」
嗚呼、何と愉快なこと。
ふいっと小太郎に背を向け、こちらをちらちら伺っている侍女たちを引き連れその場を去ろうと、大股で歩いていく甲斐姫の肩を捕まえる。
「まあ待て子犬」
「何よ。まだなんか言いたいことがあるわけ」
「気が変わった。手当てせよ」
「あんたねえ! 自分勝手もいい加減にしなさいよッ」
「借りを返せ、と言っておるのだ。苦戦したうぬを助けたであろう」
侍女が肝をつぶしながらこちらの様子を伺っている。
そんな彼女たちを案じたのか、甲斐姫はまだ何か言いたそうにしていたが、咽元まで出かかっている言葉をなんとか飲み込んだようだった。
自虐的で良い、と思う。
「だったら着いてきなさいよ」
「承知した」
成田の屋敷に来るのは久方ぶりだった。
軒先で泥を払い土間で足を清めるのを断り板の間にどかりと腰をおろしながら、大した愛着もないのに懐かしさを覚えていた。
外に面した甲斐姫の部屋。
清潔な障子を見つめていると戸が開き、包帯をかかえた甲斐姫が出てきた。
小太郎は甲斐姫に腕を向ける。
「取れ」
「土間じゃなくて客間のほうに来なさいよ」
「別にここでいい」
「もう。ここだとあたしが寒いのに」
甲斐姫は文句を言いながらも、板間にむき出しの膝をついて小太郎のすぐ傍に腰をおろした。
小太郎は静かに、具足を外す音に耳を傾けていた。
複雑な構造の手甲を外すのに苦労している甲斐姫のうなり声も、解放感と相まってそう悪くない。
桶の中の水は手拭いをつける度、すぐに茶色く濁った。
「あんた。いつもこういうの自分でやるの」
「……いや」
「どうしてんの」
「その辺にいる者を捕まえてやってもらう」
「ふうん。あたしはね、具足も全部自分で解いちゃうの」
甲斐姫は声を落とし、小太郎以外の者や、特に家の者には聞こえぬように、例えばその辺りで声を殺してふたりのやり取りを見守っているであろう侍女たちや口の軽い年増の婆などには決して聞こえぬようにして言った。
「あんたも気をつけなさいよ。怪我でもしたら、皆あんたのこと心配するんだから」
皆とは?
言葉には出さなかった。
小太郎はただ目の前の甲斐姫を見ていた。
甲斐姫はうつむき、口をすぼめた。
「それにあたしだって、今日はすごく心配した。あんたでも苦戦することなんてあるのね」
「クク……まあたまには、な」
「どっか痛いところない?」
「ない。こんな傷すぐ治る」
治癒能力がふつうの人間とは比べ物にならない程優れている為、本来なら傷の手当てなど必要ないのである。
「うぬが手当てをしたそうだったからやらせたまで。ただそれだけのことだ」
きっぱりと言い放つと、甲斐姫は表情を曇らせた。
「そういうこと言うの、やめなよ」
傷口を押さえる甲斐姫の手の力が強くなった。
むき出しの肉に湿らせた手拭いごと、思い切り甲斐姫の指が喰いこんだ。
「あんただって人間なんだから」
「…………」
「あんた自分で自分のこと人間じゃないって思ってるかもしれないけど。ほら、見なさいよ」
甲斐姫は手拭いの、傷口に当てていた面を小太郎に見せる。
――なるほど。確かに、血は赤い。
それだけのことだったが、小太郎は自分が連れている犬が何かよいことをしたときにだけそうするように、硬い面持ちの甲斐姫の頭をわしわしと撫でてやるのだった。
了(2014/04/20)
(自虐的なことをいうと怒る甲斐ちゃんは健やかなイイ子犬)
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