ただの偶像崇拝 夏侯覇率いる部隊が族の討伐から帰ってきた。ということで張コウが労いに行くと、肝心の夏侯覇の姿がどこにも見当たらず、手近なものに訊ねても首を傾げるばかり、その内大量の花を馬に背負わせた夏侯覇の側近が陣内へ下ってきた。夏侯覇の所在を尋ねるとぶっきらぼうに少し遅れてくると言う。 「本来なら首級を下げて帰るところ、夏侯覇殿は我々にこんな花を持って帰らせるのです」 馬三頭が籠を背負い、その中には色とりどりの虞美人草が入っていた。夏侯覇を小さな頃から知っている張コウは、夏侯覇が人の気を引きたいとき姿を消すことを知っている。張コウは付人に馬を持ってこさせると側近たちが来た道を進んでいった。 「お迎えにあがりましたよ。私自ら」 下馬しながらおどけて言うと夏侯覇も笑う。案外元気そうではないかと内心胸をなでおろした。 「側近の方々がお冠でしたよ。何故花なんか運ばせているのですか」 張コウは目を丸くした。 「それはそれは随分な物売りですね」 夏侯覇は笑いながら、手に持っていた花を一輪張コウの髪にさしてみせた。 「一輪だけ青いのがあったから張コウさんにあげる。よく似合ってるよ」 もちろん張コウはほんとうに怒っているわけではない。ただ花を贈られた気恥ずかしさからそんなことを言ったのだった。 「わかった」 夏侯覇は何かを吹っ切るように勢いよく立ち上がり、今しがた張コウが乗ってきた馬に飛び乗った。張コウがおどろいた声を上げると同時に馬は大きく嘶いて天を仰いだが、幸いにも張コウが思ったような惨事にはならなかった。 「張コウさん、オレ、先に帰ってるから」 張コウが苦言を言い終わる前に夏侯覇は大手を振るって馬の腹を蹴飛ばした。砂埃をたてながら馬があぜ道を駆け抜けていく。蹄の音はすぐ聞こえなくなった。 +++ 「いやあ。夏侯覇殿の成長ぶりには目覚ましいものがありますなぁ」 興奮すると体温が上がるのだろう、郭淮は数度咳き込みながら此度の夏侯覇の族討伐を雄弁に褒め称えていた。過大評価というわけではないが郭淮の弁は少々大袈裟で、張コウは苦く笑いながら話に耳を傾けていた。 「しかしあの大量の花は、一体何だったんでしょうか」 目を丸くすると、郭淮はもう一度「花です」と言った。 「虞美人草ですよ。ご存じありませんか?」 一礼して郭淮の元を去り、一度自らの屋敷へ向かう。身支度を整えるとすでに夕暮れ時で太陽は西の空に傾き、空は紫色に暮れつつあった。鳥たちが隊列を組んで巣へともどっていく。 「お料理がまだですよ」 夏侯覇は大事そうに抱えていた酒瓶からじぶんのと張コウの盃に、こぼさないようゆっくりと酒をそそいだ。 「ほお。いいお酒ですね。どこでこれを?」 とろとろと柔らかい質感の酒は、わずかに濁ってはいるものの光の加減でそう見えるだけのようで不純物は少ないようだった。盃に顔を近づけると芳醇な香りが肺に流れこむ。一口含むと舌先がわずかにしびれるようであった。 「美味しいよ、張コウさん」 使用人の持ってきた前菜をつまみにうまそうに酒を飲む夏侯覇の姿は張コウを懐かしい気持ちにさせた。夏侯淵を思い出すのだった。もう数年前のことになるが、彼がまだ生きている時にはよく今日のように卓を囲み、くだらないことをいつまでも話しあったものだった。 「あの花はね」 唐突に夏侯覇が言う。 「あの花、買わなきゃ不幸になるって言われたんじゃない。この花を買わない者は『親不孝になる』って言われたんだ」 弱弱しく笑う夏侯覇に、張コウの胸がわずかに痛んだ。 「そう、あの花、郭淮殿が欲しがってましたよ。後で幾らか束ねてください」 夏侯覇は家の者を呼んであの花を束ね、帰りに張コウに渡すよう言いつけた。 好きなひとの側で咲くことが許されることはこの上ない幸福だ。 そう張コウは夏侯淵に言ったことがある。もちろん虞姫の話だが、これが遠回しに自分たちのことを指しているとは想像に難くないだろう。 俺もそう思うな。 ただそう言ってくれた夏侯淵の言葉を、張コウは未だ大事に胸にしまっている。 「夏侯覇殿。虞美人の伝説は知っていますね」 夏侯覇は不安げに盃に視線を落とした。 「私はこう思います。『好きなひとの側で咲くことが許されることはこの上ない幸福だ』と」 うまい酒、うまい料理、きれいな花。 「張コウ」 夏侯覇に慣れない呼び方をされて、張コウは返事が一拍遅れた。それは張コウの心臓が一瞬大きく高鳴ったからだった。 かつて夏侯淵がかけてくれた言葉が夏侯覇の口から出てくると。それはばらけた二枚貝の殻が寸分狂わず合致するのと同じく、当然の道理であると。 「俺は好きなひとを危険な戦場には連れて行かないよ」 悪戯っぽく、夏侯覇は笑って見せた。 「絶対に連れて行かないよ」 夏侯覇にも他意はない。酒の席でただ思ったままを口にしたにすぎない。 「……そろそろお開きにしましょうか」 その時は郭淮殿や王異殿も誘いましょう、と張コウは付け足した。 +++ 静まり返った界隈に、張コウが扉をたたく音がやけに大きく聞こえていた。 「私です。張シュンガイです」 開けてください、と頼むとようやく戸が開いた。 「将軍。この様な時間に何の用ですか」 王異の痛飲はいつものことで、その眼は不機嫌そうにすわっている。 「でしたら、貴女でもいいのです」 戸口だということも忘れ、細い肢体を抱きしめて唇を覆う。むせ返るような酒の香りがどちらからともなくした。 「らしくないのではありませんか、将軍」 張コウが気落ちしていると見ると王異の顔色が変わった。おもしろい獲物を見つけたという風である。 「常日頃から精進している将軍が、このようないい夜に限って美しくないとは。どういうことでしょう」 渡された酒瓶から直に酒を煽った。今日という日を忘れてしまいたかった。酒瓶をひとりで半分ほど開けてみるとめまいがするように視界が揺れて、すべてのものが遠いような近いような、すべての出来事が昔のようなついさっきのことのような、夢かうつつか、天か地か、いよいよ判断ができなくなった。 「王異殿」 すがるように見つめると王異は黙って張コウの手をとって奥の室へと案内してくれた。 「フフフ、将軍子どもみたいね。どこでお酒を飲まれたの?」 将軍は平素変わらずお美しい。 「今だけは、美しくない」 張コウはそう言うとそれっきり何も言わず、王異の胸に顔をよせて身動きもとらなくなった。王異の寝巻が温かく濡れてゆく。 「将軍は、泣き上戸ね」 「かわいそうなひと」 「かわいそうなひとたち」 「ここの人たちは、みんなかわいそう」 「みんなして生者に死者を重ねて見てるのね」 「みんなして、死んだ誰かを想ってるなんて」 「おかしいわよね。ねぇ、将軍?」 夏侯淵の姿が未だいたるところにある。影のように夏侯覇につきまとい、もしかしたら一生消えないかもしれない。それがどれだけ夏侯覇を苦しめているのだろうか。考えただけで胸が痛くなる。 了(2014/05/11) |