ただの偶像崇拝
(微妙に腐っぽいです)



 夏侯覇率いる部隊が族の討伐から帰ってきた。ということで張コウが労いに行くと、肝心の夏侯覇の姿がどこにも見当たらず、手近なものに訊ねても首を傾げるばかり、その内大量の花を馬に背負わせた夏侯覇の側近が陣内へ下ってきた。夏侯覇の所在を尋ねるとぶっきらぼうに少し遅れてくると言う。

「本来なら首級を下げて帰るところ、夏侯覇殿は我々にこんな花を持って帰らせるのです」

 馬三頭が籠を背負い、その中には色とりどりの虞美人草が入っていた。夏侯覇を小さな頃から知っている張コウは、夏侯覇が人の気を引きたいとき姿を消すことを知っている。張コウは付人に馬を持ってこさせると側近たちが来た道を進んでいった。
 しばらく進むと道中に夏侯覇がうらぶれた様子で切り株に腰かけていた。そばに馬がいないので、何か手違いでもしたのかと張コウは思った。

「お迎えにあがりましたよ。私自ら」

 下馬しながらおどけて言うと夏侯覇も笑う。案外元気そうではないかと内心胸をなでおろした。

「側近の方々がお冠でしたよ。何故花なんか運ばせているのですか」
「行商人の老婆が『この花を買わなきゃ不幸になる』と言ったんだ」

 張コウは目を丸くした。

「それはそれは随分な物売りですね」
「そうでしょ? だから、買っちゃったんだ」
「しかし、そんな嘘を信じたとするならば、怒られても仕方ありませんね」
「別に怒られてもいいんだ、オレ」
「おや、私が怒ったら怖いことを一番知っているのはアナタではありませんか?」

 夏侯覇は笑いながら、手に持っていた花を一輪張コウの髪にさしてみせた。
 花はとげがきれいにとられている。行商用の花だ。

「一輪だけ青いのがあったから張コウさんにあげる。よく似合ってるよ」
「……こんなもので私を誤魔化そうというのですか?」
「いやいやいや、勘弁してよ、張コウさん」
「何か美味しいものでもごちそうしてもらわなければなりませんね」

 もちろん張コウはほんとうに怒っているわけではない。ただ花を贈られた気恥ずかしさからそんなことを言ったのだった。

「わかった」

 夏侯覇は何かを吹っ切るように勢いよく立ち上がり、今しがた張コウが乗ってきた馬に飛び乗った。張コウがおどろいた声を上げると同時に馬は大きく嘶いて天を仰いだが、幸いにも張コウが思ったような惨事にはならなかった。

「張コウさん、オレ、先に帰ってるから」
「あ、待ちなさい夏侯覇殿! アナタってひとは」

 張コウが苦言を言い終わる前に夏侯覇は大手を振るって馬の腹を蹴飛ばした。砂埃をたてながら馬があぜ道を駆け抜けていく。蹄の音はすぐ聞こえなくなった。


+++


「いやあ。夏侯覇殿の成長ぶりには目覚ましいものがありますなぁ」

 興奮すると体温が上がるのだろう、郭淮は数度咳き込みながら此度の夏侯覇の族討伐を雄弁に褒め称えていた。過大評価というわけではないが郭淮の弁は少々大袈裟で、張コウは苦く笑いながら話に耳を傾けていた。

「しかしあの大量の花は、一体何だったんでしょうか」

 目を丸くすると、郭淮はもう一度「花です」と言った。

「虞美人草ですよ。ご存じありませんか?」
「おお、あれが虞美人。いや、お恥ずかしい。虞美人の伝説は知っているのですが、文字で読んだだけで花のかたちまではわからないものです」
「まあ花はどれも等しく花ですから」
「綺麗な花です。赤く生命力に溢れています」
「郭淮殿お部屋に飾ったらいかがですか」
「おぉ、それはいい」
「では私が後でお持ちになりましょう」

 一礼して郭淮の元を去り、一度自らの屋敷へ向かう。身支度を整えるとすでに夕暮れ時で太陽は西の空に傾き、空は紫色に暮れつつあった。鳥たちが隊列を組んで巣へともどっていく。
 夏侯覇の屋敷では使用人たちが手分けして夕餉のしたくをしている最中であった。少し早くつきすぎたかと思ったが、夏侯覇は張コウの来訪をよろこんで迎え、張コウを卓に坐らせそそくさと自ら酒の支度をし始めた。
 使用人にやらせればいいのに、こういうせっかちな所は昔のままだ。

「お料理がまだですよ」
「いやいやいや、もう待ちきれないよ」

 夏侯覇は大事そうに抱えていた酒瓶からじぶんのと張コウの盃に、こぼさないようゆっくりと酒をそそいだ。

「ほお。いいお酒ですね。どこでこれを?」
「花のお礼として王異殿にもらったんだ。花のお礼にしては良すぎるって言ったんだけど、彼女いいんだって言って聞かなくて」

 とろとろと柔らかい質感の酒は、わずかに濁ってはいるものの光の加減でそう見えるだけのようで不純物は少ないようだった。盃に顔を近づけると芳醇な香りが肺に流れこむ。一口含むと舌先がわずかにしびれるようであった。

「美味しいよ、張コウさん」
「えぇ」

 使用人の持ってきた前菜をつまみにうまそうに酒を飲む夏侯覇の姿は張コウを懐かしい気持ちにさせた。夏侯淵を思い出すのだった。もう数年前のことになるが、彼がまだ生きている時にはよく今日のように卓を囲み、くだらないことをいつまでも話しあったものだった。
 あの頃からそんなに変わらない気でいたけれど、目の前の夏侯覇を見ると、時の流れを感じる。

「あの花はね」

 唐突に夏侯覇が言う。

「あの花、買わなきゃ不幸になるって言われたんじゃない。この花を買わない者は『親不孝になる』って言われたんだ」
「なんですって」
「俺も怒ったんだ。花と俺の親は関係ないって。老婆は他にも色んなことを言っていて、きっと口からでまかせを言っているっていうのはすぐわかったんだけど。でも、どうしてかそうやって言われると急に不安になったんだ。それで、だったら全部買ってやるって思って、全部買っちゃったんだ」

 弱弱しく笑う夏侯覇に、張コウの胸がわずかに痛んだ。
 事の成り行きを訊けばどうにもそれ以上怒る気になれないのは幼いころから彼を知っているから。所謂親心というやつのせいなのだろう。

「そう、あの花、郭淮殿が欲しがってましたよ。後で幾らか束ねてください」
「郭淮に、全部上げるよ」
「何事にも限度と云うものがあります」
「そう」

 夏侯覇は家の者を呼んであの花を束ね、帰りに張コウに渡すよう言いつけた。
 そういえば、昔夏侯淵からも花をもらったことがあった。なんでも曹操の花園から数本失敬してきたというのである。花園の花はもっぱら後宮の妾たちに贈られており、夏侯淵はそれを自分にくれたのだ。曹操が妾たちに贈る花を、夏侯淵は張コウに贈ったのだった。
 張コウは満月を見上げていた。良い具合に酔いが回ってきていた。
 家の者が真っ赤な花を紐でくくって持ってきた。虞美人草は蒼い月光を浴びていっそう儚げに見えた。薄く濡れるような花弁を見ると、虞美人の伝説を思い出す。

 好きなひとの側で咲くことが許されることはこの上ない幸福だ。

 そう張コウは夏侯淵に言ったことがある。もちろん虞姫の話だが、これが遠回しに自分たちのことを指しているとは想像に難くないだろう。
 何があったというわけではない。じぶんたちは上司と部下であった。

 俺もそう思うな。

 ただそう言ってくれた夏侯淵の言葉を、張コウは未だ大事に胸にしまっている。

「夏侯覇殿。虞美人の伝説は知っていますね」
「うん、大体ね」
「かの項羽に付き従って戦場を回った虞姫は、いったいどんな気持ちだったと思いますか」
「そうだなぁ。彼女、怖くなかったのかな」
「項羽の側ならばきっと怖くはなかったでしょうね」
「そうなのかな……でも、ちょっとは怖かったんじゃないかな」

 夏侯覇は不安げに盃に視線を落とした。

「私はこう思います。『好きなひとの側で咲くことが許されることはこの上ない幸福だ』と」

 うまい酒、うまい料理、きれいな花。
 張コウはこの上ない幸福を感じていた。

「張コウ」

 夏侯覇に慣れない呼び方をされて、張コウは返事が一拍遅れた。それは張コウの心臓が一瞬大きく高鳴ったからだった。

 かつて夏侯淵がかけてくれた言葉が夏侯覇の口から出てくると。それはばらけた二枚貝の殻が寸分狂わず合致するのと同じく、当然の道理であると。
 張コウでなくとも、かつて定軍山に駐屯していた誰もが抱いている幻想だった。郭淮も部下たちも、同じ気持ちだろう。他意も悪意もない。あるのは未だ揺るがない夏侯淵への純粋な信頼だけ。

「俺は好きなひとを危険な戦場には連れて行かないよ」

 悪戯っぽく、夏侯覇は笑って見せた。

「絶対に連れて行かないよ」

 夏侯覇にも他意はない。酒の席でただ思ったままを口にしたにすぎない。
 張コウは酒を口に含みゆっくりと嚥下した。辛さが咽を熱くさせる。

「……そろそろお開きにしましょうか」
「そうだね。張コウさん、また一緒にお酒飲もうね」
「はい。もちろんです」

 その時は郭淮殿や王異殿も誘いましょう、と張コウは付け足した。
 暗にふたりきりで会うことを避けるための言葉だったが、夏侯覇は気の利いた発言だという風に笑って同意するのだった。


+++


 静まり返った界隈に、張コウが扉をたたく音がやけに大きく聞こえていた。
 ようやっと戸口に人が立った気配があり、「どちら様ですか」という苛立った声が返ってきた。

「私です。張シュンガイです」

 開けてください、と頼むとようやく戸が開いた。
 扉は訪ねてきた人間を拒絶するかの如く立てつけが悪く、耳障りな音をたてて重そうだった。

「将軍。この様な時間に何の用ですか」
「飲みませんか。こんないい夜です」
「もう、寝るところです」
「飲んでいますね。王異殿」
「だったら何です?」

 王異の痛飲はいつものことで、その眼は不機嫌そうにすわっている。

「でしたら、貴女でもいいのです」

 戸口だということも忘れ、細い肢体を抱きしめて唇を覆う。むせ返るような酒の香りがどちらからともなくした。
 王異は右手を抜いて張コウの顔を張ろうとしたが、殴られるより早く張コウは王異を解放し身をひいた。

「らしくないのではありませんか、将軍」
「今夜はどうしようもありません。美しくないことは自分がいちばんよくわかっています」
「まあ!」

 張コウが気落ちしていると見ると王異の顔色が変わった。おもしろい獲物を見つけたという風である。

「常日頃から精進している将軍が、このようないい夜に限って美しくないとは。どういうことでしょう」
「……お酒をください」
「いいですよ」

 渡された酒瓶から直に酒を煽った。今日という日を忘れてしまいたかった。酒瓶をひとりで半分ほど開けてみるとめまいがするように視界が揺れて、すべてのものが遠いような近いような、すべての出来事が昔のようなついさっきのことのような、夢かうつつか、天か地か、いよいよ判断ができなくなった。
 王異は張コウの様子を伺いながら、水瓶から桶に水を組み、そこに張コウの持っていた花束をつけた。

「王異殿」

 すがるように見つめると王異は黙って張コウの手をとって奥の室へと案内してくれた。
 何をしようというわけではなかったが独り寝には寂しい夜だった。王異に抱きしめられて布団にくるまると、ようやく張コウは落ち着くことができた。

「フフフ、将軍子どもみたいね。どこでお酒を飲まれたの?」
「夏侯覇殿と飲みました」
「嗚呼、夏侯覇殿言っていましたよ。わたしが差し上げたお酒、張コウ殿と飲むんだって」
「それで、わたしは、」
「…………」
「わたしは、美しくないのです」
「どうして?」

 将軍は平素変わらずお美しい。
 張コウの耳元で、王異は慰めるようにささやいて、彼の頭をやさしい手つきで撫でてやった。

「今だけは、美しくない」

 張コウはそう言うとそれっきり何も言わず、王異の胸に顔をよせて身動きもとらなくなった。王異の寝巻が温かく濡れてゆく。

「将軍は、泣き上戸ね」

「かわいそうなひと」

「かわいそうなひとたち」

「ここの人たちは、みんなかわいそう」

「みんなして生者に死者を重ねて見てるのね」

「みんなして、死んだ誰かを想ってるなんて」

「おかしいわよね。ねぇ、将軍?」

 夏侯淵の姿が未だいたるところにある。影のように夏侯覇につきまとい、もしかしたら一生消えないかもしれない。それがどれだけ夏侯覇を苦しめているのだろうか。考えただけで胸が痛くなる。
 そして自分も、夏侯覇の親代わりなどと考え傍にいたくせにそんな偶像崇拝者のひとりであった事実に寒気がした。なんて醜いのだろう。あさましいのだろう。夏侯覇を愛するふりをしながらその延長線上にある夏侯淵を未だに自分は愛しているくせに。
 張コウが寝息をたてはじめるまでしばらく、王異はひとりごとを呟いていた。


了(2014/05/11)