落涙は無色透明無味無臭 長坂で劉備をあと一歩というところまで追い詰めた張遼には鬼気迫るものがあった。双鉞の先が黒く塗りつぶされており、焦げているのかと目を凝らしてみると点々と広がる模様は血が幾重にも重なって酸化しているのだった。 「まるで鬼神だな」 唯一、夏候惇だけが曹操にそう言った。 「女、子供も容赦なく、だ。お前がなにか言ったんじゃないのか? 孟徳」 じろりと睨まれ、夏候惇は口をつぐんだ。書簡にすべらせていた筆を止め曹操は宙を見る。 「アレは協調性がない。他人と馴れ合おうとする心が欠落している故に、他の者の気持ちを想像することが不得手なのよ。張遼のなかには誰もおらぬ」 大切な者くらいアイツにもいるだろうと夏候惇は反論したが、曹操は首を横に振った。 「お前ふとしたときにワシのことを考えるときがあるだろう。雪が降っていたら、孟徳風邪ひかないように温かくしているかな、とか」 それから夏候惇は注意して張遼を観察するようになった。 「すげえな。張遼のやつ」 広い訓練場に張遼の怒声と檄が容赦なくとんでいる。 「ああ。鬼神を見ているようだ」 あっけらかんと夏侯淵は笑った。 「おお、張コウ! お前体の具合はもういいのか」 張コウの回復を溢れんばかりの笑顔で迎え、反対にぐるりと足元の夏侯覇には厳しい視線を向けた。 「夏侯覇、お前張コウに我が儘言ってねえだろうな?」 打って変わって明るい表情でばんざいをしている夏侯覇を抱き上げた。 「息子よ。よく見ていろよ。お前ももう少し大きくなったらこうして訓練に出るんだからな」 殿を守れるように強くなれ。 「やだ。覇はくんれんでない……」 夏候惇の手前でも、夏侯淵は怒りが収まらないようだった。でもよ惇兄ッ俺たちの兄弟にはもっと小さい時分から弓だ槍だで遊んでたやつがいただろう。コイツはそういうものに近づきもしねえんだ。女みてえに花とか、動物とかで遊んでんだよ、オレ様の息子が『男女』なんて、オレは許せねえんだよ。 ふと見ると訓練場の一角に不自然に人垣ができており、不審に思った夏候惇はその中心に駆け寄った。 「おい。大丈夫か」 うずくまっていた張遼はずいぶんと驚いた表情で夏候惇を見上げた。 「惇兄ー!」 振り向くと夏侯淵が大きくこちらに手を振っていた。 「悪いけど、オレァ先に戻ってるからなーッ」 べそをかいている夏侯覇を抱いた張コウがこちらに歩いてくる。 「夏候惇将軍。ワタシたちも失礼します」 でもそんなのってないだろ。それじゃあまるで、人間じゃないじゃないか。人間じゃないなんて有るか? 俺にとって孟徳や淵がいるように張遼にだっているはずなのに。あいつの周りにもたくさんの人がいて。それなのにあいつはひとりぼっちなのか? そんなのってあんまりじゃないか。あんまりにも、さびしいじゃないか。 「思うに、張遼将軍は大切なひとを亡くしているのではありませんか?」 夏候惇の脳裏にかつて張遼の周囲にいた人間の姿が浮かんだ。 「ワタクシも経験がありますよ。仲間が死んで自分だけ生き残るということは辛いことです」 張コウは自らの腕のなかの夏侯覇の頭を撫でた。 「とんにぃおじさん」 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を服のそででぬぐっている。 「ちちうえ、おこったの……」 淵もきっと許してくれるよ。夏候惇も夏侯覇の頭を撫でた。 「いっしょにきて、とんにぃおじさん」 困っている夏候惇に張コウが、「そういえば張遼将軍は子どもがお好きみたいですよ」と告げた。それを聞いた夏候惇は、よし、とひとつ気合いを入れ、張コウから夏侯覇を引きとった。 了 2013/01/18 修正、2014/08/19 (優しい惇兄) |