風葬の蟲たち
※ 虫を殺す描写があります



何かを壊すことが楽しかった。
竹簡の紐をほどいてバラバラにしてみたり着物の糸を引き抜いて穴をあけてみたり。中でも楽しかったのは、虫の羽をちぎることだった。
母や女官に見つかると怒られるので、それはこっそり行われる秘密の儀式だった。
外に出て、虫を捕まえる。
ゆっくり近づけば、蜻蛉や蝶々なんかはとらえることができた。
それらがいない時は庭のすみの地面にしゃがんで、蟻を見つけては足をちぎった。
夢中になって、気がつけば足元には黒い固まりができていた。
動かなくなった蟻たちは静かに鎮座していて、まるで何かの墓標のようだった。
表に長く出ていると母が心配してわたしを呼ぶので、そこでわたしはようやく我に返り、あわてて足元のそれらを蹴散らして、何事もなかったかのように母の腕に飛びこむのだ。


わたしを抱く母の腕は、その内に夫の腕に変わった。細い母の腕に抱かれるにはわたしは歳を取り大きくなってしまったから。
寝所で男のにおいを嗅ぎながら「怖いか」と不意に聞かれ、何故そんなことを聞かれたのかわからず「全く」と応えると笑われた。何故笑われたのか分からずに表情を曇らせたら、「存外男には慣れているのか」と問われ、初めて先ほどの質問の意味を理解した。
顔を赤くしたわたしに、夫は気をよくしたようだった。
顎先に指をあて、伏せた顔を持ち上げた。
「やはり怖かったか」
「……意地悪はやめて」
「悪かったよ」
目をつぶると唇が押し当てられた。卵のカラでも剥くようにまとっていたものを取り払う。外気に触れた肌が粟立った。
わたしばかり寒い思いをしている。
そう感じて夫の帯に手を伸ばした。
彼は驚きつつも、そういったわたしの負けん気を好いてくれていたらしく、わたしたちは男女の役割分担をしつつも、根底部分では平等だった。
珍しい男だった。


世界は灰色だったと言わざるを得ない。
月のものが止まり、半信半疑だったが徐々に徐々に下腹部がふくれていくのにつれて、視界が透明度を増して輝きだした。
空はようやく晴れ渡り、緑は鮮やかで、昼間のひかりが目にまぶしいほどだった。
表を歩く人たちの、なんと健やかなこと。
天守に立って外を眺めているだけで涙がこぼれてしまう。
些細なことで泣いてしまうようになった。
食事が美味しいとか、雨がやんで晴れ間がさしたとか。
ある時など夫が帰ってきただけで泣いてしまった。
これにはさすがに彼も狼狽していた。
「どこか痛むのか」
「違うの……わたしね、いまとても幸せなの」
「しあわせ?」
「そう。貴方と出会えてよかった。子を宿せて、よかった」
夫はわたしのつっぱって重たい腹に手をあてた。
それに応えるように子どもが腹を蹴ったので、わたしたちは泣きながら笑い合っていた。
「どうか健やかな子を産んでおくれ。そしてお前も、健やかであれよ。私の側から居なくならないでおくれ」



馬のうえで背中越しに一度、燃える冀城を見上げた。
もう此処に帰ることはないだろう。
わたしたちの家族が皆眠ってしまったお墓を最後に、わたしは夫と共に馬を駆る。
「行きましょう。生きてなせることがあるはずです」
「……そうだな」
夫は肩を落としていた。部下が、息子が、家族が死んで、それでもわたし達はお互いがいるからこうして夜中に馬を駆ることができる。
息子が城に火をつけた。
我ながら、聡明な息子に育ったものだ。「もう城が落ちるのも時間の問題です。張コウ将軍の援軍も間に合いますまい。それならば騒乱を起こすので父上達は包囲を突破してください」と言い、燭台を手に持ち、「どうか生き延びてください」と頭を下げた。
わたしは残りたいと思ったけれど、夫がわたしの腕をとったので息子に最期の別れを告げて城を出た。
子はまた作ればいい、とは思わなかったが、この状況を打開するにはこれしかない。
とにかく馬を駆って、張コウ将軍と合流を。
崖のふちで手綱を引くと眼下に小指の爪程の松明が川のほとりに並んでいた。まるでわたしと夫を迎えてくれてるみたい。
「見て! 張コウ将軍の」
陣営だわ。
そう言おうと思って、言えなかった。
突き飛ばされて、落馬し、崖から落ちながら見たものは敵兵に囲まれている夫。
――逃げろ、王異ッ
馬が嘶いた。
夫の剣が敵兵の体をつらぬく。
敵兵が夫に飛びかかる。
剣が振り下ろされた。
血飛沫が飛んでいる。
あれはどちらの血だろう。
「貴方――ッ」



川の湾曲している部分でやっと水流が遅くなり、背の高い草を掴み、水を吸って重くなった体でなんとか岸のうえに這い上がった。
寒かった。肩で息をして、苛立ちながら口のなかに入ったゴミを唾と一緒に吐きだした。
手のひらに、足を縮こませて丸まりながら死んでいる蠅。
奥歯がぎしぎしと耳障りな音をたてた。
小さな死骸から、翅を、脚を、胴体をやみくもに引っぺがす。
原型がなくなるまで蠅を潰したころ、ようやくわたしは立ち上がることができて、そのまま真っ暗な川岸を上流に登っていった。

「王異殿……御主人のことは、ほんとうに」
「気にしないで張コウ殿。悪いのは全部馬超なんだから」
罰が悪そうな張コウ将軍に気にしていないと告げた。
今後はわたしも将軍の軍に置いてもらい、将軍とわたしは絶対に馬超を倒すと約束し合い、再会を祝って盃をかわした。
毎晩馬超を殺す夢を見る。
朝が来るたびわたしは泣いて、陣幕の中でひとり寝台の下の蟻の巣に木の枝をさしこむ。
蟻は木の枝に集まって、その内の何匹かを捕まえては殺した。
鮮やかで輝かしかったあの頃が、もう二度と戻ってこないことをわたしは知っていた。
馬超が憎かった。
でもそれと同時に、本当のじぶんに戻れたような気もしていて、それが一層わたしを苛立たせていた。
死骸が積み重なって、黒い墓標をつくっている。
わたしの墓標。
生命を愛しいと感じ、美しいこの世をお創りになった神へ毎日感謝していたわたしはもういない。


いるのはこうして日々何かしらを壊さなければ気が済まない、天涯孤独の女ひとり。
わたしは今日も暗器を手に、陣幕を後にする。
黒い墓標を蹴散らして。