夜が逢わせてくれる


 小さい頃、口答えをすれば殴られてばかりいた。父親は頭がきれて優秀な医者だったが、自己中心的で内弁慶な男だった。そんな男と結婚しようと思う女も結局は同じ類の人間で、始めこそ「勉強しなさい」という言葉に応えていたが、その内母親の姿なんて傲慢で醜い怪物にしか見えなくなった。
「パパの言うことははいはいって聞いておけばいいのよ。こじれると面倒くさいんだから」
 嫌と言うほど聞いた母親の言葉。面倒という言葉がまだ小さかった自分の肩にも重く圧し掛かっていた。晴れ上がった頬を抑えて涙をこぼしている自分のことを、母親は鏡台越しに見ながらため息をついていた。重りをやっと下ろすように、ゆっくりと赤い口紅をポーチに入れた。
「さあ勉強しなさい」
 鉛のように重たい言葉。母親は私のことを愛していたのだろうか。甘い香水の香りが妙に艶かしかった。

 寒さに身を硬くしているとあの香水の香りがしてハッとした。布団の代わりに覆いかぶさる、大きな影を自分に落としている人物と目があって息を飲む。状況を整理しようとしても頭が動かなかった。女は口元に笑みを浮かべている。綺麗に色づいた唇は瑞々しく光っていた。
「夢でも見てたの?」
 女が言う。何か言おうと口を開いたが、潤いをなくした咽からは声が出ない。
「うなされてるみたいで、苦しそうだったわよ」
 女の手が、服の下に滑り込む。冷えた空気が腹を撫でて、嫌悪感に涙が出そうだった。
「可愛いわ、アカギ」
 女が肌に唇を寄せる。ぬるりと付着する口紅と女の舌。べたべたと粘着する化粧品が意識を逸らすのを許さない。金縛りにあったようだった。長い金髪が揺れる度にバニラとアーモンドとべっ甲飴と油と粘土を練ってこねたような匂いがしてコメカミが締め付けられるように痛んだ。
「い、やだ……」
 唾液を飲み下し、ひねり出したか細い声に女は笑った。
「嫌じゃないでしょ?」
 長い髪をかきあげ、普段見えない左目に光が灯る。黒いコートが月明かりを一心に集めている。この景色の異常さを正当化するように女だけが別の世界の人間のようだった。これは何かの儀式なのか、そんな事が頭をよぎる。「教えてあげる」「貴方のこと好きなの」「助けてあげるわ」そう言う女を気持ち悪いとは思いつつも、女が服を脱ぎ始めれば下半身は否応なく反応した。一切迷わない強引さは鼻についたが、腐敗した甘い誘いに乗ってもういっそ楽になりたい自分がいるのも事実だった。往生際の悪い理性が悲鳴をあげ続けている。

END
10/04/27