上空からレッドさんを見つけて、私はもう泣いていた。泣き始めると今度は泣いている自分が情けなくてもっと涙が出た。一度泣き始めると止まらないから、もう何が悲しいんだかわからなくなってしまうまで泣かなくてはいけなかった。ムクホークは私の様子を覗いながらポケモンセンター上空を旋回していた。三十分の遅刻はそういう理由だった。
「レッドさん、遅刻してごめんなさい」
「ううん。いいんだよ」
「寒かったですよね?」
「寒くないよ。いつも地元にいるときなんかはもっとずっと高い山の上にいるから、慣れているから大丈夫だよ。……それに、」
――それに。
レッドさんの声にあわせるようにしてマフラーを巻いたピカチューがセーターの襟元から顔を出した。ピカチューがピンク色のマフラーを巻いているのは可愛かったし、ピカチューが入っているからレッドさんのセーターは襟元がだらしなく垂れ下がってしまっているし、レッドさんは赤ちゃんを抱っこするみたいにピカチューを支えているし、愛しくておかしくて気を使わせてしまっているのが悲しかった。
ご飯を食べよう、というレッドさんの提案を受けて私たちはファミレスに入った。店内は暖房がきいていて強張っていた体はゆっくりとほどけていった。二人とピカチュー一匹、禁煙で、店員さんの質問にレッドさんが淡々と答え、私たちは店の奥の席に案内された。コートとマフラーを脱いで、皴にならないようにたたんで脇に置いた。テーブルの下をもぐって私の元に来たピカチューは、私の膝に乗って自分の鼻を私の手にこすりつけてきた。少し濡れた小さな鼻が手のひらをくすぐった。ピカチューは頭を撫でようとした私の手をすり抜けて、たたんであったマフラーを引っぱり出した。ピカチューは器用に体を回してマフラーを体に巻きつけた。
「こら。ピカチュー。ダメだろ?」
再びテーブルの下をもぐってレッドさんの元に帰ったピカチューは、レッドさんにそう怒られていた。レッドさんは丁寧にピカチューからマフラーを取りはずして、「ごめんね」と本当に申し訳なさそうに謝ってくれた。ピカチューも頭をさげて謝ってくれた。私は、気にしてないですよ、と言った。その言葉は本心だったけど、レッドさんはもう一度、ごめんね、と謝ってくれた。
二人でメニューを見て、店員さんを呼んだ。レッドさんが、この季節は鍋が食べたくなるけどカレーも食べたい気分だと言うから、はんぶんこする約束をして私は寄せ鍋を、レッドさんはビーフカレーとピカチュー用にポケモンフードライトを注文した。レッドさんと一緒にいるときは驚いたり困ったりするようなことがない。それはレッドさんが落ち着いて言葉を選んでくれるからだと思う。だからファミレスにいた三十分の間で、アカギさんを連想させるような会話は一回も出てこなかった。
「寄せ鍋もカレーも美味しかったですね」
「やっぱり冬の鍋はいいね。それにヒカリちゃんのおかげでカレーと両方食べれた」
「得しちゃいましたね」
「ヒカリちゃんはお腹いっぱいになった?」
「はい。沢山食べました」
「よかった。じゃあ行こうか」
外の寒さも、十分に温まっていた体には心地いいくらいだった。私たちは並んでキッサキ科学未来館に向かった。自然と繋いだレッドさんの手を熱いと思ったのは自分の手が冷えていたからだろうか。手の冷たい人は心が温かいと言うけれど、私の心は、主である私から離れてどこかに行ってしまった。あれから何をしていてもやるきれなさを感じて、悲しくなって、泣いてしまう。レッドさんから電話を受けた昨日、私はベッドの上でテレビを眺めていた。来年世界が滅亡してしまうというテレビ番組だった。恐ろしいことに私は、世界が滅亡したっていいと思っていた。その時は怖くも悲しくもなかったし、涙だって出なかった。電話が鳴ったのはそんな時だった。
――ヒカリちゃん、プラネタリウムに行こうよ、キッサキの科学未来館ってところにあるって知ってた? 俺も最近知ったんだ、明日って何か予定ある? よかったら、一緒に見に行こう。
そう言ったレッドさんの照れたような、はにかんだ声は今も耳に残っている。
科学未来館の中はファミレス同様暖房がきいていた。受付で入場料を払い、中に入ると様々なポケモンの写真と研究結果が壁一面に貼られていた。子供の私にでもわかるように優しい言葉で書いてあって、上映が始まるまでの時間を使って私たちは全部の記事を律儀に読みながら二階の上映室まで足を運んだ。入り口の係員さんにチケットを渡して分厚い扉をくぐりぬけると、想像していたよりも広いドームに思わず感嘆の息がもれた。
「……すごーい」
「プラネタリウム、初めてなんだっけ?」
「はい、初めて来ました。広いんですねプラネタリウムって。映画館に似てるけどちょっと違いますね。イスも元々後ろに倒れてるし、天井が真っ白で面白い」
「あの天井に映った星を眺めるからね。映画館とは、やっぱり違うね」
「レッドさん、真ん中の黒いやつはなんですか?」
「あれは投影機だよ。あれで天井に星を映すんだ。一年中の星が全部見られるんだよ。これを一番初めに考えた人はすごいよね。よっぽど、星が好きだったんだ」
心なしかレッドさんも高揚しているようだった。私たちは並んで茜色のシートに腰かけた。背もたれの大きなイスにすっぽり収まると、なんだか守られているようで安心した。
「そういえば、ピカチューは?」
私がそう聞いて、レッドさんは今思い出したみたいに自分のセーターの襟口を大きくあけて、中にいるピカチューを呼んだ。私もコートとマフラーをとりながらピカチューを呼んだ。ピカチューはどうやら眠っているようだった。返事の変わりに返ってきた寝息を聞いて、私とレッドさんは顔を見合わせて笑った。
満月がしずむように、ゆっくりと照明が落ちていった。目を開けているのか開けていないのかわからなくなって混乱しそうになる瞬間、天井のドームいっぱいに丸い光が散らばった。世界中の星をかき集めてきたような空は今にも落っこちてきそうで、もしかしたら世界はこうして滅亡するのかもしれないと思った。
――誰でも一度は夜の空を見上げて、星を眺めてみたことがあるでしょう。
女性の柔らかな声にあわせて、ドームの星がゆっくりと動き始めた。私たちはプラネタリウムで一年の星の動きと宇宙の成り立ちについての話を聞いた。物語の最中に私があの人を思い出すことはなかった。屋内で見る初めての星にワクワクしていて、とてもそれどころではなかった。
再び会場に明かりが灯り、私たちは互いに感想を言い合いながら外に出た。時刻は夕方十六時。外はもう暗かった。いつの間にか降りだした雪が、等間隔で並ぶ街灯にライトアップされて輝いていた。雪なんて珍しいものでもないのに、私たちは互いに足を止めてそれを眺めていた。
目の端でレッドさんの洋服が動いたのに気づいて、見るとピカチューが眠たそうに目をこすりながらセーターから顔を覗かせていた。「ピカ? ピカピ?」と、寝起きのかすれた声でレッドさんに話しかけている。「もう帰るから、それまで寝ていていいよ」レッドさんも優く言葉をかけてピカチューを撫でた。私は、レッドさんの「帰る」という言葉を聞いてまた悲しい気持ちがぶり返していた。今日がとっても楽しかったから。でもレッドさんに迷惑をかけたくはなかったから、私は黙って落ちてくる雪を眺めていた。
レッドさんが、「じゃあ」と言った。その後に続く言葉はもうわかっていた。だから最後の力を振り絞って「今日はありがとうございました。とっても楽しかったです」と笑顔で言おうと思っていたけど、私の予想に反して、レッドさんは来たときと同じように私の手をとった。「じゃあ、行こうか」そう言ったのだ。
面食らった私はレッドさんに引かれる手を逆に引っ張った。レッドさんは少しだけ驚いたような顔をしたけど、優しい笑顔を絶やすことはなかった。
「どうして? 帰るんじゃないんですか?」
そう聞いた声は、情けなく震えていた。
「帰る、けど、夕飯をどこかで一緒に食べていこうと思ったんだ。さっきここに来るときに通ったんだけど、鍋焼きうどんのお店があったの覚えてる? あそこに行ってみようと思って。でもヒカリちゃんがもう帰らなくちゃいけない時間だったらいいよ。どっちにしろ暗くなっちゃったから、今日は家まで送るけど」
レッドさんは「どうする?」と笑顔で聞いてくれた。
「ご飯……食べます」
「うん、そうしよう」
空気を取り巻いてゆっくりと落下してくる雪に合わせるようにしてレッドさんは歩き出した。それは私の、流れる涙の速度でもあった。お腹が空くとね、とレッドさんが言った。お腹が空くとね、人は悲しくなるんだよ、あと夕暮れ時も悲しくなるよ、俺がいつもいる山はカントーで一番高い山なんだけど、ここと同じようにいつも雪が降ってるんだ、でもたまに降らない時もあって、そういう時って珍しいから俺は買い物に出かけたりするんだけど帰ってきて雪が降り始めていると物悲しい気分になる、また同じになってしまったって思うと自分だけが皆よりずっと遅れてしまっているような気持ちになって嫌な気持ちになるんだ、だから雪が降ると悲しくなるんだよ、おかしいことじゃないよ。
私は何も言わなかった。すれ違う人に泣き顔を見られたくなくて、下ばかりを見て歩いていた。踏み固められた雪は泥が混じっている。新雪はその上に、ゆっくりと落ちていく。
END
10/07/07
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