シンク

 さすが、デサイナーズマンションだけある。内装はもちろん、特に気に入ったのはどこかのバーを連想させるカウンターキッチンだった。不動産屋の男性社員は私がキッチンに興味を示すと、このキッチンの素晴らしさについて、フッ素加工がどうのこうの浄水器が内蔵されてうんぬんかんぬんと何やら能弁に語りだしたけど、私はその時自分がボスのために美味しいご飯を作っているところを想像して悦に浸っていた。サラダにスープ、それを食べてもらっている間にメインディッシュを作ろう。食前酒にワインを出してもいい。私はお酒はあんまり飲めないけれど、ボスの晩酌に付き合ってもいい。そうしたら簡単なおつまみを準備してあげたい。彼の胃袋を満足させてあげたい。このカウンターキッチンで。
「お料理はよくされるんですか?」
「えぇ。仕事の日もなるべく自分で作るようにしてるんです」
 男性社員の目を見てニッコリと答えた。しかしどうしてこの人は春先だと言うのに日焼けしているのだろう。顔から視線を下げていくと真っ白いワイシャツとぶつかったときにどうしても驚いてしまう。それとも地黒なのだろうか。何故かそれをどうしても確かめたくなった。カウンターの中で、私たちは妙に接近していた。
「家庭的な方ってとっても素敵です」
「そうですか。なんていうかもう、趣味みたいなものなんですよね」
「いいですね。とっても」
 彼は私の返答を聞いて、何やら満足しているようだった。リビングからは西日が差し込んで清潔な部屋を明るく染めていた。私は窓に手をついて、沢山の建物の屋根を眺めていた。彼は持っている書類をめくりながら、「よかったら今日、夕飯をご一緒しませんか」と私の背中に投げかけた。
 私はもう一度ニッコリと笑った。


 夢見心地で、油が跳ねる音を聞いていた。完璧に覚醒するまでどれだけかかっただろうか。一瞬だったような気もするし、一時間だったような気もする。「熱い」という叫び声を聞いて、安定しない頭を持ち上げた。時計を見ると午前三時。呆れながらサイドテーブルに置いてあったタバコを持ってリビングに向かった。
 リビングに向かうまで全てのドアが開けっ放しだった。何かを追いかけるようにそれを順々に閉めながら、リビングにたどり着くとカウンターの中にサターンがいた。白い煙がもうもうと立ち上り、油のはじける音がする。
「なにしてるの」
 聞かなくてもわかる。だけど聞いた。「料理」とサターンは簡潔に答えた。そういえば夕飯を食べないで、そのまま眠ってしまったんだった。
 タバコに火をつけて換気扇のスイッチを入れた。結局このキッチンで、私がボスのために料理を作ることはただの一度もなかった。私の妄想が具現化することはなかった。
 フライパンを覗き込むと二つの卵とベーコンが油の中で泳いでいた。思わず顔をしかめたが鋭く睨まれたので何も言わずにタバコの煙を吸い込んだ。「苦手なんだ」とサターンが言った。そんな言い訳、聞かなくてもわかる。見ているだけで胃がムカついた。
「ちょっとどいてくれない。こんな時間に、そんな油ぎったもの食べられないでしょ」
 強引にコンロの前を奪い、フライパンの中の残骸を三角コーナーに捨てた。
 あらかじめ切ってタッパに入れておいた野菜を選別して冷蔵庫から取り出し、軽く煮込んでスープの元と冷や飯を入れて野菜雑炊を作った。複雑な色合いをしているが味を調えれば美味しく食べられた。サターンはダイニングテーブルに出てきた雑炊に、大分驚いているようだった。
「アンタ、あたしが料理できるなんてこれっぽっちも思ってなかったんでしょ」
「あぁ」
 悪びれず即答して、サターンはまだ湯気のたつ雑炊をすすった。私はスプーンの中の雑炊を冷まそうとひたすら湯気を吹き消していた。
「正直に言うと」
「うん」
「お前のことだから、お洒落だからとか、ミーハーな気持ちで住んでるんだと思ってた」
「うん」
「でも料理好きだったらこういう広いキッチンの部屋に住みたくなるんだろうな。整理整頓もしてあって、ちょっと感心したよ」
 よほどお腹が空いていたのか、サターンはすぐに雑炊を食べ終わり、御代わりを取りに再びキッチンに向かった。私はなんとなくその様子を眺めていて、サターンが席についてからようやく最初の一口をすすった。小さく切っておいたお陰で玉ねぎも人参も口の中に残ることなく胃に落ちていった。
「私の夢って、ボスのお嫁さんになることだったから」
 ふうん、とサターンは興味なさそうに相槌をうった。
「ボスってあんまりご飯食べないから、少なくても栄養のあるメニューとかいっぱい考えてた。お酒のことも勉強したし、なんかあの人が面倒だと思っていることを全部、何でもやってあげたかったんだ」
 私はもうあまり湯気の出なくなった雑炊を更にスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜた。かき混ぜればかき混ぜるほど、固形物が溶けて消えていって気持ちよかった。
 サターンは一瞬手を休めて、テーブルに視線を落とした。何かあるのかと視線を追ったけど、テーブルクロスはただただ清潔で真っ白く広がっていた。
「あの人は俺なんかより、ずっとさ……」
「……ずっと、なに?」
 サターンは「さあ」と首を傾げたきり、それ以上何も言わなかった。私は彼の鋭い目を捉えようとスプーンを持つ手を止めてジッと見ていた。こういう時、サターンは絶対に目を合わせようとしない。私の非難するような視線が怖いのだ。

(同期)

11/01/01

自虐的になる土星に憤慨する火星の複雑な乙女心(サブタイトル)