Nが何か私にずっと話しかけているのにうっすらと気付いてはいたけれど、元々私は寝起きが悪いし、起きたら起きたで昨日のアイツの所業を思い出して腹がたち、もう意地になっていて、絶対に起きてなんかやらないぞという気分になっていた。寝返りを打つと、鈍く痛んだ。腰というか、お腹というか、足と足の、間というか。
「トーコ……」
 うるさい、だまればか、お前のせいだぞ。
 そう言いたかったけれど、言わなかった。十分くらい根競べをして、結局短気な私が先に折れた。私は布団から少しだけ顔を出して、「なあに?」と訊いてあげた。
「とっ、ともだちの……友達のこえが聞こえないんだ……」
 Nの足元からは、か細い声が聞こえている。きゅうう……、と、Nと同じように泣きそうな声。
「聞こえてるよ、Nのエモンガの声。お腹空いてるんじゃない?」
「ちがうよ、そういう意味じゃないよ」
 Nは抗議の声を上げた。私はまだ頭がはっきり覚醒していなくって、事の重大さが理解できないでいた。いや、これが起き抜けじゃなかったからといって、私の対応は変わらなかっただろう。Nの気持ちを慮ってあげられる人間が、果たしてこの世界にいるのだろうか?
「言葉がわからないんだ……」
 目をこすり、視界がはっきりしていくのと同時に頭の中もクリアになっていく。泣きそうだと思っていたNはもう泣いていて、頬を涙が伝っていた。ぽろぽろぽろぽろ落ちる涙はどこか玩具のようだった。泣くという行為にしては、あまりにも静かだった。
「なんにも、わからないんだよ……」
「きゅううー……」
 Nは打ちひしがれていた。

 私はNのことがあまり好きではなかった。今だって昔よりは好きだけど、好きじゃないと言えば好きじゃない。
 でもNは私のことを好きだと言った。私に恋人として付き合ってほしい、と言った。
「Nは私のことを好きなの?」
「うん。僕とトウコって全然似てないけど、でも僕はトウコのこと好きだよ」
 私たちは再び観覧車に乗っていた。本当はフユタと乗ろうと思っていたのに、Nはフユタを脅し(Nは笑って人を脅迫するところがある)無理やり順番を代わってもらったのだ。ゴンドラの足元からはたえず温風が出ていて、私は落ち着きなく足を組みなおしていた。
「……私はあんまり、Nのこと好きじゃない」
 ゴンドラはすでに頂上を過ぎ、静かにゆっくり下降していた。Nの背後に見えていた宝石みたいな夜景が、徐々に見慣れた景色へと変わっていく。
「例えば、トウコがあんまり可愛くないと思うポケモンっている?」
「うーん……バスラオ、とか」
「じゃあバスラオをひょんなことから仲間に加えたとする。バスラオは育てれば育てた分だけトウコに愛情を持って強くなっていくだろう。トウコもバスラオを頼りにするようになって、いつしかバスラオとトウコは互いに信頼しあったいいパートナーになっていく。そういうことは、十分に考えられるだろう?」
「うん」
「だから僕とトウコも、仲良くなれると思うんだ」
「……そうかな」
「僕はトウコのことが好きだよ」
「……うん」
「トウコは今、僕のことをあんまり好きじゃないかもしれないけど、いつかきっと好きになれるよ」
「…………」
「トウコのこと、好きだよ」
「……わかったから」
 こうして私たちは付き合うことになった。Nは女々しい。私はチェレンにもベルにもお母さんにも、すごくすごく頑張らなくっちゃ好きなんて言えないのに、Nはあっさりと私に好きだと言う。どうして言えるのだろう。恥ずかしいとか、思わないんだろうか。

 付き合うということがどういうことだかわからなかった私は、とりあえずNの言うとおりにした。
 週に二回くらい、会っておしゃべりをしたりご飯を食べたりミュージカルを見に行ったり、手をつないで歩いたりした。Nの手はいつも暖かかった。にぎっているだけで気持ち良かったし、寒風が吹きつけるような日はつないだ手をポケットに入れてもらって歩いた。恥ずかしかったけどNはいつでもいたく私を気遣ってくれたので、Nの前で私は少しだけ女の子らしかったと思う。
 Nと付き合っているということは誰にも言わなかった。でも季節が流れるうちに、みんなが私たちの関係を知るようになっていった。好奇の目で見られることはイヤだった。私はNとそのことで一度ケンカをしたことがある。結局それは、デートは人目につかない場所を選ぶことにする、という約束と彼の平謝りによって終結した。

 Nについて、私が知る情報は少ない。

「神聖な動物は、生娘には手を出せないんだって」
「ふうん」
「男もまた然りでは? と、この本には書いてある」
「ずいぶんマニアックな本だね」
 チェレンは本を閉じて、参考になった? と訊いた。私は黙って首を横に振った。途方もなさすぎて、私にはよくわからなかった。チェレンにはわかるのだろうか。私が考えている以上に、重大なことは起こっていないのだと言う彼は、半ばこの事態を面白がっているようだった。朝食をとり終え、食後のコーヒーを飲み干した。代金をテーブルに置いて立ち上がるとチェレンは本を私のほうへよこした。
「参考になるかもよ」
「解決策は?」
「おちこぼれ生息子の伝記が載っているだけ」
「書いてないならいい」
 くさくさした気持ちで店を出た。チェレンに苛立っている自分がいた。

 部屋に入るときはいつも少しだけ緊張する。
 Nが帰ってきているかもしれない、という思いが胸をかすめ、そしてすぐに裏切られる。あれからまたNはどこかに行ってしまった。悲しいことがあるとNは私の前から消える。きっと彼なりのプライドがそうさせるのだろう。あの朝静かに涙をこぼしていたNに、もっと優しくしてあげればよかった。もしくは思いっきりぶん殴ってやればよかった。みんなポケモンの言葉なんて聞けない、それが普通なんだって。
 涙が出た。
 胸が痛いくらいに締め付けられてうずくまった。Nがいなくなるのはこれが初めてではないのに、あの時とは比べ物にならないくらい悲しかった。私はNのことが好きじゃない。でもそれは嘘で、本当は大好きだった。ポケモンの声なんか聞こえなくたっていいじゃないか。百パーセントの理解が必要だとは思わない。だって私はNの前で素直に気持ちを口にしたことなんてないけれど、Nは私の考えていることがわかっていたはずだ。モンスターボールが震えていた。Nの置いていったエモンガのボールだった。
「きゅうう」
「N……ちゃんと帰ってくるって言う意味で君のこと置いていったんだよね?」
「きゅ、きゅ」
 エモンガは一生懸命頷いていた。ほらみろ。意思の疎通なんて、言語を使わずとも取れるのだ。
「しょうがない ひとです」
 エモンガはそんな風に言っているような気がした。私はほほえましい気持ちになって、涙を拭いて鼻をかんで立ち上がった。エモンガが羽ばたきながらきゅうきゅう鳴き声をあげている。「どこに いくんですか」きっと、そんな風に心配している。
「Nのことを探しに行こう。君も早くご主人さまに会いたいでしょう」
「きゅっ、きゅう」
「うん、私も会いたい。伝説のポケモンの力を借りれば、きっとすぐに見つかるよ」
 嬉しそうなエモンガの様子に安堵した。この子だって不安だったのだ。私は二、三回、深く深呼吸をしてから部屋を後にした。


なくしたものたちの国


END
11/09/08