「わたしバカだから」
マーズがこう言うたびにムカついた。身をわきまえているというより、面倒な仕事をほっぽり投げたいだけなのだ。だからマーズがそう言うたびに口を挟んだ。やればできるだろ、それでも幹部かお前は、部下に示しがつかないだろやる気出せ仕事全部押しつけんじゃねえちゃんとしろバカ。そう言うとまた、「だから、バカなんだってばわたし」と開きなおってみせるのだった。
ボスが失踪してからひと月がたった。皆の不安がわたぼこりになって部屋の隅にたまっていった。マーズはボスが使っていたアジト最奥を掃除するようになった。一ヵ月間毎日、バカの一つ覚えみたいに掃除し続けたおかげでボスの部屋だけはチリ一つない状態を保っていた。
「もうボスは帰ってこないぞ」
見かねてそう言ってやった。皆が心の片隅で思っていることだった。それでもマーズは掃除をやめようとしない。マーズだってボスが帰ってこないことくらい気づいているはずだ。だから単純作業で気を紛らわしているのだろう。無様に床に這いつくばって、濡れた雑巾で熱心に床を磨いている。
「でも、もしかしたら帰ってくるかもしれないわ」
「だからもう帰ってこないって」
「きっと、すごく汚い部屋には帰ってきたくないと思うの」
「だから。帰ってこないって言ってるだろ」
同じ言語を話しているのに、話が通じなくてイライラした。肩をつかんで思いっきり引っぱると、マーズはバランスを崩して尻もちをついた。「何でわかんないんだよバカ」って怒鳴ったら、「だって、わたし、バカだもん」ってマーズは涙目になって訴えた。
「バカだから、わかんない。作戦が失敗したこととか、ボスが帰ってこないこととか、ボスが私たちを裏切ったこととか、何もかもわかんない。なんでボスは帰ってきてくれないのよ。なんで私たちのこと置いて行ったのよ。心をなくしたかったってどういうことよ。争いのない平和な世界を作るって言ってたじゃない。私の目を見て言ったじゃない。全部ウソだったってこと? 最初から最後までウソだったの? どうしてウソなんかつく必要があったのよ、わかんないわよ、だってわたしバカだもん。あんたにわかるの? みんなにウソついてたボスの気持ちが、わかるって言うの?」
言葉の途中からマーズは本格的に泣きだした。水拭きしていた雑巾を私にむかって投げつけたあと、手持無沙汰になったのか床を拳骨で殴りつけていた。
私はなにも言葉が出なかった。「答えなさいよ」とマーズに責められても、何も言えなかった。熱心に掃除を続けていたマーズに対して、苛立っていた自分の気持ちすらわかっていなかった自分にこれ以上なにか言う資格があるとは思えなかった。
いまさら、お前が好きだなんて。口が裂けても言えるわけないじゃないか。
私もマーズと一緒に泣きたかった。でも泣けなかった。それはきっと、私が一番バカだったからだと思う。
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