! 『ボスと白昼夢』と同設定 akagi(27)×jupiter(27?)
あたしの恋の音をきいて Title By loathe
自動ドアが開ききる前に体をねじこんだからガタガタッとすごい音がした。フロアにいた下っ端たちは驚いていたけど、外勤から戻ったわたしが一刻も早く休みたくてかけこんできたのだと勝手に勘違いして、今年の夏はまた格別に暑いですねなどと話し始めたので勝手に勘違いさせておくことにする。
暑かった。咽がカラカラに乾いていたから自動販売機で緑茶を買って一息で飲み干した。紙コップをつぶして力任せにゴミ箱に叩きつけると気分がいくらか落ち着いた。でも今度は体に力が入らなくなって、自動販売機の隣に腰をおろした。壁も廊下もひんやりしている。三角坐りをして膝に顔を押し付けて、目を閉じると真っ暗闇のなかあの男の姿が浮かび上がった。
かつての同居人兼身元保証人の男の姿。わたしを支配する為にどんなことでもする男だった。横断歩道の向こう側に立ってこちらを、わたしを見ていた。凶暴な太陽光がビルや道路標識やいろいろなものをキラキラひからせていたから向こうの顔はよく見えなかったし、ということはつまり向こうもわたしの顔はわからなかっただろうし、それにそもそもあれはよく似た別の男の可能性のほうがずっと高いけれど今となってはわからず恐怖だけが残っていた。
コツコツと廊下を蹴る靴音がこちらに近づいてきて、また逃げなくちゃと体を起こそうとしたけれど、強張った体をうまく伸ばすことができず尻餅をついた。それに、と思い直す。それに、ここは社内だからあの男のわけがないし、この靴音の主は想像がつく。大丈夫、うまくごまかせると自分で自分を慰めた。制服の胸の部分に触るとまだどくどくと大きな音がしていた。いい加減この心臓おさまらないかしら。
「なんだキミ、こんなところで」
「…………」
「汚いだろそこは」
通りかかったボスがわたしを見下ろしながら熱中症か? と首を傾げた。顔色が悪いぞって、万年デスクワークのあなたには言われたくないんですけど。
「なんでもないんです。ええちょっと、気分が悪くて」
「ならそんなところに隠れてないで医務室に行きたまえ」
あ、わたしが隠れてるってちゃんとわかったんだ。ボスすごい。さすが、ボス。
ボスと初めて会ったときもあの男から逃げていたから物凄いデジャヴを覚えた。ここは社内のボスの部屋に向かう人気のない通路なのに、キッサキシティのエイチ湖のほとりのように感じられた。わたしが小刻みに震えているのは雪が降っていて寒いのに泊まるところがないから、かまくらを手作りしているせいで、ボスは星を見に来たとわたしに話しかけてきたのだ。「ここは空気が澄んでいるから星がとても綺麗に見えるのだよ」
「ボス」
ボスはやっかしそうに、立ち上がろうとして生まれたてのポニータみたいになっているわたしを見下ろしている。
「わたしがいなくなったらどうしますか」
「何?」
「もしもの話ですよ。意味はありません」
でももしあの横断歩道の向こうにいた男がわたしの元同居人兼身元保証人だったとして、逆恨みしているあの男がわたしを殺しちゃったりしたら、どうします?
知らんぷりしますか? きっとボスはそうしますよね? だって警察ごとは面倒だから。それがいいと思います。
頭の中の自問自答を、自分自身で嘲笑ったらボスが眉間の皺を深くした。きつい眼差しが真っ直ぐわたしを捕まえた。
「辞めたいのか」
「え?」
「私の会社で働くことが嫌になって、もっと華やかな職場に行きたくなったのか?」
「違いますけど」
「ならば生活をもう少し豊かにしたいということか」
「…………?」
ボスの言っていることの要領が得られず困惑していると、ボスはハッと何かに気付いたような顔をした。
「もうすぐボーナスの支給日だろう」
「そうですね。楽しみです」
「やはりもっと待遇のいい職場に……」
「別にわたし、この仕事イヤじゃないですよ。辞めたいとも思ってません」
「本当か」
「はい」
「では何故いなくなったらどうするかなどと訊いたんだ」
「だから言ったじゃないですか。意味はないって」
どちらからともなくアジト最奥に向かって歩き出す。ふたり分の足音が重なって廊下に響いていた。ボスはなかなか納得できないらしく何度もわたしに確認を求めた。彼がこんな風にしつこくすることなんて滅多にないのにいったいどうしたと言うのだろう。何が彼をこんなに不安にさせたのだろう。わたしは熱に浮かされたような気分でボスの隣を歩いていた。まだ心臓はうるさく鳴っている。
「いなくならないな」
「はい」
「君に辞められると困るんだよ」
「でもわたしの変わりの人間はいるでしょ?」
「変わりとなる人間はこの世のどこかには……いや、そうじゃない。とにかく困るんだよ」
わかるだろ? とボスが言うので、わたしはわかりませんと言って笑った。
END(2012/12/20)
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