サターンの目の下が黒ずんでいるのを見ると締日が近いことを実感する。各自のノルマ達成に対する追い込みは今月に入ってから激化の一途を辿っていた。組織の上部に近づくにつれて責任が増していくのだからここ数日わたしが家に帰れていないのも仕方のない話だ。
「今からハクタイに行ってきてくれ」
「……今から、ですか」
「そうだ。資料がなく、電話したら担当者は帰ったそうだ。君が行くのが一番早い」
手元の時計を見なくても今が何時かなんてわかる。午前1時。
もちろん取りに行く以外の選択肢なんて無い。
外は暑くもなく寒くもなかった。と言っても空を飛んでいく道中は寒いだろうからショールを巻いてゴルバットに飛び乗った。夜行性のゴルバットは清々しそうに夜空を飛んでいたが、わたしは行きと帰りにブラックコーヒーを飲まなければ転落死してしまいそうだった。
本社に帰ってくるころには3時近くになっていた。
窓から見えるオフィスの灯かりの数をかぞえながら歩く。トバリシティはシンオウの中でも都会だが、うちのオフィスほど夜中に電気を使っている会社は無いだろう。
「失礼します。ボス、ただいま帰りました」
わたしの頭の中はすでに明日の朝まであと何時間眠れるかということでいっぱいだった。片づけなければいけない書類がずいぶんと残っている。
「ご苦労だったね」
「いえ」
「マーズの管轄の仕事なんだが……今日は彼女も帰ったらしいね。重要な案件はなるべくネットワークを通したくないのだが、こういう時は不便で仕方ないね」
「……そうですね」
「…………」
ボスがメモリーに入っているデータの確認をし終わるまでショールの毛玉をむしりながら待った。どの位かかるのだろう。早く寝たい。でも退室するわけにもいかない。ばれないように時計を確認しつつ、白目を向きたい気持ちを我慢しつつ、ボスがマウスを操作する音を聞いていた。
そういえば洗濯物が溜まっている。キッチンもひどい有様だ。昼も夜もない。就労規則もない。ボスは最近何か苛立つことでもあったのか、たまに殺気立ってることがあるから黙って言うことを聞いてるけどさすがに疲れた。美味しいものを食べて熱いお風呂に入ってゆっくりと家の布団で眠りたい。休みの日には買い物にも行きたい。新しいストールでも買おうかしら……これもう3年も使ってるし。何だかんだ休みの日は寝て過ごしちゃうけどいつも寝て終わっちゃうのもよくないし「よし」
ボスが勢いよく立ち上がった。
「終わったんですか」
「あぁ。今日中に確認できてよかったよ」
「……もう日付変わりましたけどね」
「一杯飲むかね」
「え?」
ボスは戸棚からグラスとスコッチを取り出してきた。「水割りでいいかね」「え……」「……ストレートかい?」「水割りで」
おいしい水で1対1で割る。薄い琥珀色の液体をボスは水でも飲むように飲み干した。勢いで作ってもらってしまったけど別に飲みたいわけでもないので、一口だけ舐めてみる。むせ返るような濃いアルコールのにおいが口と鼻に広がって、においだけで酔ってしまいそうだった。
「作りますよ」
「自分でやるからいいよ」
「そう、ですか」
「貰い物だけどこれは良い酒だよ。高いだけあってさすがにうまいね」
「はぁ」
高いのか。そう聞いてしまうと、飲んでおかないともったいないような気になってくる。一口二口と飲んでみると段々と吐き出す息がスコッチそのものになってくる。
ボスは機嫌がいいのかポツポツと仕事の話なんかをしていた。この間のアレは酷かったとかなんとか。
はぁとかえぇとか相槌を打ちながら眠たいなぁと全然別のコトを考えていた。ボスが何か小さな声で言ったような気がして、よく聞き取れなかったので、え? と聞き返したらすぐ傍にボスの顔があって目があった。至近距離で見る色素の薄いボスの目は、わたしの全てを見透かしているようでもあった。
綺麗な目だった。
何を言うでもなく見つめ合ってしまい。それが何かを許したことになったのか、それとも何かに負けたことになったのか。
体の上に感じる重さと、嗅ぎ慣れないシトラスの整髪剤のかおり。初めて見た天井の模様に感心しながら、革張りのソファーに全身がしずみ込む気持ちよさを既に感じていた。
「フフッ」
「……何故笑う」
「ボスも女性が好きだったんですね」
「君はどうだなんだ」
「私?」
「男性が好きか」
「…………」
「それとも女性が好きか」
水っぽくなっていたわたしの入り口に、ボスのものがあてがわれて身を固くした。
「人間は好きか」
よく言う。
声をあげないように手で唇を抑えていたらボスがその手をとってソファに押さえつけた。突き上げられるたびに子宮がふるえる。貴方みたいな人が選択を間違えるわけがないってわかってる。
でも、もし。
もしもボスが少しでも人間を好いていて。
わたしのことを特別に好いていたとして。
この関係が上司と部下以上になったとして。
全ての計画がうまくいったとしたら。
わたし男なんて要らないけど。
もしボスが結婚しようって言ってくれたら、ワタシは……
仮眠室の固いベッドにも慣れてしまって起きたら9時を過ぎていた。シャワーを浴びて化粧をしてクリーニングから帰ってきた制服に袖を通す。仕度をし終えるともう10時になっていた。マーズが死にそうな顔をしながらPCをタイプしている。
「アンタなんで昨日帰ったのよ」
「……昨日?」
「アンタが帰っちゃったからわたしがハクタイまで資料取りに行ったのよ」
「あたしだって遅くまでいたわよ、ただ昨日はもうイヤになって飲みに行ったけど」
「酒くさいわよ」
「うぅ……頭いたいし……昨日のことはもうよく覚えてないわ」
呆れているとオフィスにサターンが入ってきた。「契約取れたの?」と聞くとくたびれた様子で頷いた。目元にはまるで殴られたみたいに青黒い隈が乗っているけれど、すれ違ったら彼まで酒臭かったから心配するのはやめた。
爺さんの姿が見えない。
「プルートは?」
「有給休暇だって」
「あのジジイ」
締日まであと少し。
自動販売機の前にボスがいた。
「ボス、昨日のコトですけど」
「……昨日。なにかね」
ボスは一瞬動揺して見せた。ボスがひるむコトが想定外でわたしもひるむ。
「……覚えてらっしゃらないですか」
水を得たというように、覚えてないとボスは言った。
わたしはおかしくなって笑ってしまう。貴方みたいに頭のイイ人が覚えてないなんて……でもいい。わたしとボスは上司と部下だ。それが一番お互い居心地がいいということが改めて分かった。
動揺しているボスの姿なんて見たくない。
「……わたしも、忘れました」
「……そうかね」
少し疲れているだろう。ボスが言う。
「締日を過ぎたら有給休暇でもとったらいい」
「そうですね。忙しすぎて皆頭おかしくなってますもんね」
「こういう所はプルートを見習うべきなのだろうね」
そう言うとボスはコーヒーを持って去って行った。
素っ気なくかわされたわたしは飲みたくはなかったけどボスが買ったものと同じ飲み物を買う。
マーズとかだったらこんな風にされたら傷ついたりわめいたりするかもしれない。だけどわたしはそうはしない。わたしはボスが嫌がるようなことはしない。わたしはいつでもボスの望む結果を出してゆきたい。わたしは、ボスのことが……
コーヒーを一口飲んでデスクに戻った。ブラックコーヒーがぼんやりとした思考を消していく。今はその苦味がとても心地よかった。
わるいボスと恋する木星さん
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